TRAD & RIDE

vol.6 価値と、TRAD&RIDEについて 1/2

2024.11.01

column

みなさんにはどんな価値観があるだろうか。僕は、”地球家族”という本を見てそれまでの凝り固まった価値観に少し変化を覚えた。世界の平均的な家族はどんなモノを所有しているのか、その本では同じ時代を生きる人々の暮らしを俯瞰できる。その中でも、日本やアメリカは極端にモノが多い。一見、豊かで便利そうで良いことのように思う。だがそれと引き換えに、日本では投資の教育が無かった為、仕組みをアナウンスされていない多くの者は人生の後半まで莫大な時間を労働に捧げてきた。

経済成長のフェーズではそれが一つの幸せの形。”がむしゃらな労働”を入力するればする程、”上質なモノやサービスを享受できる実感”が出力された為、働くことを生きることと結びつけるのが容易だったと思う。良くも悪くも同調圧力という日本人らしさも影響した。だが、失われた30年という言葉があるように、成長が鈍化してかつ高度に情報化が進んだ今のフェーズでは少なからず何かのひずみが生じている。数日単位で目に見えてわかる変化ではない。今はまだそれをうまく言語化できない。ただ、波になる前のうねりのような違和感は確実にある。

一般的な幸せの形。僕もそれを掴みたい一人である。家族や大切な友人のコミュニティの中で健康や衣食住に困ることなく穏やかに暮らしたい。だがもしそれを実現できたとして、その形はこれからも本当に持続できるのだろうか。何故なら、これから日本の生産年齢人口はひたすらに減少し続けるからだ。生産されることも消費されることも縮小する。コントロールできる範疇を超えて余計なことは考えずに、目の前のことに集中すること。これは昔から両親に叱られていたことだ。反論の余地は無い。笑

さて、被害妄想で自ら暗いトンネルに入っているということは承知したうえで、過去に記事にしたような経緯を仮にモノや文化による呪縛と表現してみた。先人達が残して下さった様々な文化や社会インフラ。その礎のおかげで、僕らは豊かで便利な日本を享受している。その大前提を頭に留めたまま、敢えて伝統的モノづくりやそれをとりまく文化に価値があるのか、または続ける意味があるのか。そんな呪縛を緩やかに解けないか思考を巡らせたい。

値段が高いモノは良いモノで、安いモノは悪いモノ。つまり「安かろう悪かろう」というこの公式は、コモディティ化した商品には当てはまると思う。他方で、これが成り立ちにくい領域は往々にして高級なモノとその周辺の文化だ。これらに付く価値はネームバリューという創造価値だと思う。批判をしているのではない。単純に古いモノに高い値段が付くのであれば、有名画家が描いた絵画や高級ブランドの新作バッグよりも、幼い頃に父と見つけた貝殻の化石の方が価値があってもいい。でも絶対にそうはならない。それらが一線を画す理由としては、世代を超えて語り継がれるストーリーがあり大衆からの認知度が高いにも関わらず、所有できる人数が限られるという事実。それが希少性を生むからだ。そこには、材料費や人件費といった野暮な話が入る隙はない。これこそまさにブランド。最強の付加価値だ。何故か、評価されるモノを所有するということは評価される存在だと無意識に追認する。このようにして、憧れというマーケティングの渦に僕も含め消費者達は自らを誘う。

以前、ある有名画家の展覧会に美術館へと足を運んだことがある。平日だというのに、たくさんの人が会場を埋め尽くしていた。作者の作品は高いもので数十億円で落札されるそうだ。有名であるという一点で、さぞ素晴らしい効用があるのだろうと、野次馬心も相まってワクワクした気持ちで中に入った。しかし、すぐ気分が悪くなり頭痛がしてほんの10分足らずで会場を後にした。何を伝えたいのか、何を表現しているのか意味を全く理解できなかった。その時の僕にはあまりにも教養が無かったのだ。同時にふと思ったこともある。ガイドブックを片手に、予備知識を完璧に頭に入れた状態でその絵画の本物を肉眼で鑑賞した場合、こみ上げる感情や感動というものをあるいは価値というものを本当に感じ取ることはできるのだろうか。まだ実現させていないので憶測で恐縮だが、希少性があるから価値があるということ以外の感触を僕は認識できるだろうか。それらはあくまで先人たちが定義した価値観の枠内での話ではないだろうかと疑問に包まれた。

かの有名なエジプト文明やローマ帝国でさえ今となっては存在しない。森羅万象は、まさに諸行無常で移ろいゆくものなら、一つの時代が定義した価値観も変わっても良いと思う。遥か先に意識を飛ばすほど、ポジティブ or ネガティブ、正解 or 不正解、損 or 得 といった物差しを気にする意味は薄れてくる。どこまでも、私たちは変わりゆく流れの中で生きるしかない。だから、自分たちの文化だけをあの手この手で頑張って残そうとすること自体どうなのだろうかと最近まで正直思っていた。いくらグローバル化やインターネット化が進もうが、誰にも語られずに消えていった素晴らしい何かは、きっと過去のどこかにいくつも存在するはずだ。次の記事に続く。

2024.11.01

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